2019年11月04日

人生の重み

小学生のころ、スポーツ選手や大人たちを観察していて、大きな怪我を「人生の重み」と解釈するようになった。
中学生や高校生くらいになると、自らが本格的に体を動かすようになり怪我は厄介事でしかなくなってきた。
そして大学そして社会人になり、現在の仕事に就き、また怪我を「人生の重み」と思うようになってきた。

人間は死ぬまで完全体でいられることなどない。
何かしら傷つき、その修復にエネルギーを注ぎ、完全に修復が出来ぬまま、また傷を増やす。
それは身体も心も同じこと、と気が付いたのは大人になってから。
大きな怪我は所謂後遺症というものをもたらす。
以前のように身体を動かすことが出来なくなり、その怪我した部分を庇うようになる。
スポーツ選手にとっては致命傷になりかねないこのような大怪我は、人生にとってマイナスでしかないと思っていたこともある。
現役選手に限れば実際にマイナスな出来事だろう。

しかし、人間の成長を考えてみれば、傷つく、怪我をするということは決してマイナスなことではない。
というか、傷を負うことで自らを振り返る時間を得て、さらに動けない身体を工夫して使うようになる。
陰陽論でいうところの、陽だけでは成長はありえない。
陰の部分を十分に備えてこそ陽が働くのだ。

そう、陰陽論を知ると、人生にマイナスはなくなる。
マイナスではなく、陽に必要な陰を経験できたということなのだ。

人生においての傷はその人の隠したい影の部分であり、影は光があれば必ずできるものである。
身体と心に見え隠れする人生の影は、その人が経験したものであり、その量が多いほど、そして影が暗いほどその人の「人生の重み」がずっしりと感じられるものである。

年齢と共に動かしづらくなった身体と心とうまいこと付き合いながら人間は成長するものなのだ。
だから怪我したからと言って悲観することはない。
それは成長のきっかけなのだから。
posted by 養生乃はり at 00:01| 医道

2019年09月21日

南京

今から上海、南京に行ってきます。
南京中医薬学院との学術交流です。
5日間の予定ですので、水曜日まで休診となります。
posted by 養生乃はり at 08:39| 医道

2019年09月13日

学生の悩み

最近鍼灸の専門学校の学生さんと話をすることが多い。
そのほとんどの方が卒後の方向性や臨床に悩み、戸惑いを感じている。
それもそのはずで、専門学校は職業訓練校と思いきや、国家試験に合格することが最優先となり、そんなに難しくない国家試験対策に3年間を費やすからだ。
わからんではないのは、500万円近い授業料を払って、3年間の勉強時間を費やしてまでして、国家試験に落ちるわけにはいかない、まずは国家試験を通過しなくては話にならないという事情にある。
だから卒業してすぐに鍼灸師として世に出るにしても、治療をまともにできる人は限られてくる。

そんな人たちへのちょっとしたアドバイスをひとつふたつ。
まず、身体や病気、そして鍼灸に対する哲学を育てること。
そして、ベースの治療体系を一つだけ身に付けること。
おそらくこの二つだけで人間の身体を診て、治療することはできるはず。
そこから経験を積むしかない。
トライアンドエラーと反省を繰り返して日々成長していく。

そこから古典の出番となる。
さらに哲学を育てるのには経験と古典が必要不可欠となるから。
というわけで、日本内経医学会の宣伝でした。(笑)
posted by 養生乃はり at 01:20| 医道

2019年07月31日

家伝灸

ヨモギを乾燥させて、葉の裏に生えている白い細かい毛だけを取り出したものを艾(もぐさ)と呼ぶ。
取り出す過程をより細かくして、精製度を高くするとクリーム色のきれいな艾ができる。
そのような艾は火をつけるとゆっくり低温で燃えるので、火傷させないようにピリッと表面まで焼くお灸に適している。
精製度合いの高い艾は一部の鍼灸院でしか使われていないうえに、最近はお灸をする鍼灸院が減ったという話があるので、売れないという理由で艾工場の閉鎖が相次いでいるということも聞く。

少し前の話になるのか、「お灸女子」という言葉を業界で流行らせようとがんばっていたらしい。
それがどの程度身になったのか不明だが、日本にはかなり前からお灸の文化があった。
それは専門家として鍼灸師が行うものだけでなく、各家庭で、もしくは地域の寺社で「養生の灸」として行われるものであった。
代表的な例を挙げると、専門家としては四ツ木の灸や坂本竜馬の婚約者として有名な千葉佐奈の灸院などが有名なところ、地域の寺社というと弘法の灸や峰の灸(落語「強情灸」のモデル)などが有名ではないだろうか。

一方で家伝灸という言葉がある。
文字を見る限りでは各家庭に伝わる灸法を指すのかと思いきや、灸院や地域の寺社(以下灸処)で続く養生の灸を指すことが多い。
それらは昭和の中ごろまでは盛んで、私鉄沿線では灸処近くに駅を造り、乗客数を稼いでいたという。
四ツ木の灸の四ツ木駅のように灸処の駅名がつくこともある。

さて、私の住んでいる地域にも家伝灸がある。
神楽坂の毘沙門様でおなじみの善国寺で7月のお祭りの時期に行われるほうろく灸がそれである。
ちなみにこの文章はそのほうろく灸の宣伝しようと書き始めたのだが、すっかり公開するのを忘れていたので、先週のことを宣伝することになってしまった。
ほうろく灸とは、素焼きの皿にでっかい艾をのっけて、それを頭にかぶせて火をつけるというもの。
ちなみに真面目にやっているとものすごく熱い。
そのうえで読経と鳴りものがものすごい音量で響き渡る。
頭に熱が上り、気持ちも高揚して、おわるとすっきりするのがポイントだ。
ちなみに抽選でほおずきがもらえる。

お灸は養生の一環として効果がある、と私は認識している。
初めての人はわからないことだらけだろうから、興味ある人がいたら一度体験してみてほしい。
そして、艾の使用量をこれ以上減らさず、工場がやっていけるだけの量を消費するために、お灸の良さを広めて家伝灸という文化を続けていきたいものである。
posted by 養生乃はり at 15:28| 医道

2019年07月06日

やーめーろーよ!

蒸し暑いからか、家の前で子供たちが水鉄砲で遊んでいる。
男の子の遊びは結構激しい。
そのなかの一人が半泣きのような声で「やーめーろーよ!」と叫んでいる。
水をかけられるのが嫌なのだろう。
ただ、その子は水をかけるのだけは大好きらしく、水をかけられるのが止んだとたんに攻撃を始める。

その様子を見て戦争が無くならない理由がわかった気がする。

男女関係なく人間の大半はそうなのだろう。
こちらからチョッカイはだすけど、チョッカイ出されるのは嫌いなのだ。
チョッカイ出されたくないから「停戦!停戦!」「戦争はしない!」と声を荒げる。
しかし、チョッカイを出すのは好きだから、武装はやめない。
冷静なうちは武装を止めたら自然と水かけっこ(戦争)は止むのは分かるのだが、その真っ最中は理性を失っていてわからないでいる。
というか、やられないために水鉄砲を相手に向け続ける。

子供はいい。
誰かが泣けばそれで終わりの合図。
明日からまた同じ友情が続く。
大人はそうはいかない。
人間の性質もあるが、経済活動もかかわってくる。
武装の解除なんて許してはくれない。

ほら、今もまたうちの甥っ子が泣いて戦争が終わった。(笑)
posted by 養生乃はり at 16:36| 日記

2019年06月28日

韓国にて

現在韓国のヤンサンにいる。
釜山の少し北にある小さな町だ。
明日「2019年大韓韓医学原典学会夏季国際学術大会」に出席して講演をしてくる。
タイトルは「日本内経医学会の30年の道程」というもの。

今日投稿した「なぜ古典を読むのか」は、その発表原稿を作成する過程で、古典についてどう表現すればよいかと悩んでいたのでまとめたもの。

少し説明を足すと、まず私は「日本内経医学会」という組織の運営の一人でちょこっと講義もしたりする。
日本内経医学会は医古典に特化した勉強会で、先日は日本医史学会から受賞を受けたように、日本国内外問わず一目を置かれた存在となっている。
そして、当会が韓医学原典学会の学術大会に招待を受けて、なんだかんだで代表として私が今韓国にいるという。

ということで、7/1の月曜日まで「養生乃はり」は臨時休業です。
これが言いたかった。
posted by 養生乃はり at 23:42| 日記

なぜ古典を読むのか

中高生の頃「なぜ古典を読むのか?」という問いに対して、芯を捉えた答えを出せる大人もいなければ、学んでいるはずの自分も疑問に思うことすら無駄な時間と思うようになっていた気がする。
記憶することが苦手な私は、記憶することこそ古典の唯一の勉強法と信じ込んでいた学生時代の古典の授業は嫌な時間でしかなかった。

ではなぜ今古典を読み、勉強しているのか。
それは次のように考えている。

「人間は過去から学ぶことができる。」
多くの動物は、自分の経験してきたことを振り返り学ぶことで成長していく。
ただ人間の文明の発展はそれだけでは成し得なかった。
人間一人の経験などたいしたものではないからだ。
だから本を読んで、多くの先人が経験した過去を振り返り学び、人類として成長してきた。
実際、印刷という発明があり、一般に本が出回る10世紀あたりに中国では一気に文化が昇華している。
本を読んで追体験した人が、より多くの経験を積み本を書く。
それが積み重なり本の情報は洗練されていく。
洗練とは濁った水を放置して上澄みのキレイな水をすくい取るようなもので、濁った部分にある雑多だけれども重要な情報までは伝えられないことが多い。
しかも情報は時代に左右されやすく、なにしろ一番重要なことは人間はよく誤ることだ。
その弱点を解かった上で、多くの武術や宗教などでは、情報に左右されない隔離された環境の中で、修行という先人の経験を追体験をさせ、修了した中でも優秀な弟子のみに真髄を伝える、一子相伝の口伝というぶれや誤りのほぼない形式で後世に伝える手段を取った。
正確に少人数に伝えるか、誤りはあれど大人数に伝えるか、方法論の違いはあれど、本質は同じ「過去に学ぶ」ということだ。

本や大人数を対象とする講習会による学習は、情報の洗練による誤りや情報量の制限による上澄みのみの伝達があるということを知らずに受け入れると、間違った追体験になってしまう。
だからより過去の本から洗練されていない情報を得る必要がある。
それが古典だ。

しかも技術的な発展はここ数百年は目覚しい進歩を遂げたが、精神的な発展は孔子や老子、それ以外の諸子百家を振り返ってみると、ほとんど退化しているくらいに思える。
それだけでもより過去の本から先人の意図を読み取れるようになれれば、すばらしい追体験ができるとは思わんかね?(ムスカの口調で)

最後にロバートキャンベルさんの「日本人はなぜ古文が読めなくなったのか」というインタビュー記事がありました。
ぼくらよりも日本のことを知っています。
ぜひ読んでみてください。
「日本人はなぜ古文が読めなくなったのか ――ロバート キャンベル氏に聞く、原典をひもとき足元を見つめ直す魅力」
posted by 養生乃はり at 23:17| 医道

2019年06月22日

気が付く

指導の先生には、「いっぱい悩んだらいいのよ、それが成長させるのだから」とは言われたものの、つい先日まで酷い状況だったので、えらく凹んでいた。
会まで入らないことなんかざらにあり、弓をふっ飛ばしてしまうことも2度や3度ではない。
上下左右のバランスは崩れ、末端に力みがあり、すべてが定まらないでいる。
もはや何に悩んでいるのかも判らなくなるほどの崩れっぷりだ。

こういう時の脱出方法は2つあると思う。
一つは崩れ始めた理由をじっくり考えるというやり方。
先生方のご指導をつなぎ合わせて、現状を知るのが理屈を考える上で近道だろう。
もう一つはひたすら引く、というやり方。
どちらかを選ぶことはないので、私はじっくり考えたうえでそれが形になるまで引き続ける。

そのうち突然目の前が開ける(気がしているだけかもしれないが、それはそれ)。
切っ掛けはほんとうにちょっとしたことだったりする。
そこに気が付くかどうか、おそらく先輩方はみんな通られてきた道なのだろう。
私の様なこだわるタイプにはあまり細かい指導にならず、大切なポイントを一言ということが多い。
そして一つの壁を越えたことをわかっていただけるようで、指導方針も少し変わる。
おもしろいもので、こちらが言わないでもわかってくださる。

ただ、現在の射形に満足できないので、おそらくまた崩れることになる。
というか一度崩すことになるだろう。
いやはや、この道は果てしない。
ゴールを設定されていないと満足できない人には到底続けられないだろう。
posted by 養生乃はり at 13:02| 弓道